第51代 平城天皇陵 陵名=楊梅陵
(ヤマモモノミササギ)
陵の形=円丘・空堀 皇居=平安宮
(ヘイアンノミヤ)
父=桓武天皇 母=藤原乙牟漏
在位年数=4年(806〜809年) 年齢=51歳(774〜824年)
所在地=奈良県奈良市佐紀町
参拝年月日

2004.3.21、暖かい日差しの春の一日、平城・成務・孝謙天皇陵を歩いた。元そごう奈良店・現イトーヨーカドー奈良店の駐車場に車を置いて、往復2時間のちょっとしたウォーキングになった。

2010.9.9 & 9.30 平城京遷都1300年祭で平城京旧跡を歩いた。
広大な平城宮跡を歩いて大極殿跡の正面に平城天皇陵が見える。

2004.3.21
2004.3.21、平城宮跡大極殿跡
から天皇陵を望む

2004.3.21、平城天皇陵
(楊梅陵ヤマモモノミササギ)
2010.9.9
2010.9.30

第52代 嵯峨天皇陵 陵名=嵯峨山上陵
(サガノヤマノエノミササギ)
陵の形=円丘 皇居=平安宮
(ヘイアンノミヤ)
父=桓武天皇 母=藤原乙牟漏
在位年数=15年(809〜823年) 年齢=57歳(786〜842年)
所在地=京都市右京区北嵯峨朝原
参拝年月日 「子」が女性の名前として定着するのは平安時代に入り、嵯峨天皇の頃から。その理由は嵯峨天皇が自分の皇女たちに「子」をつけたからといわれている。それ以来、その風習が藤原氏をはじめとする貴族たちに広まり、今日に至ったというわけ。それまでは「小野妹子」のように男でも「子」をつけていた。

嵯峨天皇は能筆家であり空海・橘逸勢(ハヤナリ)ともども三筆と称された。
天皇は多くの皇后を寵愛し、多数の皇子等は臣籍に下り嵯峨源氏となった。

2006.10.30、当陵を訪ねた。
山上陵と言われるだけあって正に「山の上」にあった。大覚寺の横手から山の石段を登る。道は七曲りも八曲がりもある。いい加減シンドイ。誰も登る人はいない。途中眼下には大沢池・広沢池が見える。20分ほどでようやく山頂。
これだけシンドイ陵はここだけだろう。

嵯峨天皇は自分の「葬儀・墓は薄葬でいい。墓場も木を植える必要なし、雑草も生えるにまかせよ」と命じたそうな。

帰えり、山を下っていると一人登ってきた。「朝は結構登る人がいるんですよ。散歩代わりに・・・」と言っていた。
2006.10.30
2011.7.24
延々と続く山頂への石段



2008.5.15、彦根東高校同窓会のハイキングで京都嵐山界隈を歩いたとき、常寂光寺のそばに嵯峨天皇の皇女「有智子内親王」のお墓があった。

2008.5.15、撮影

2008.5.15、撮影



第53代 淳和天皇陵 陵名=大原野西嶺上陵
(オオハラノノニシノミネノエノミササギ)
陵の形=円丘 皇居=平安宮
(ヘイアンノミヤ)
父=桓武天皇 母=藤原旅子
在位年数=11年(823〜833年) 年齢=55歳(786〜840年)
所在地=京都市西京区大原野南春

2003.4.17(土)彦八ハイク西川君のご案内で小塩山を歩いた際に、この天皇陵に出くわした。多くの陵は平地の車でいけるところだが、この陵はハイキングコースの山の中にあり、ちょっと大変。


2003.4.17、撮影

第54代 仁明天皇陵 陵名=深草陵
(フカクサノミササギ)
陵の形=方形・堀 皇居=平安宮
(ヘイアンノミヤ)
父=嵯峨天皇 母=橘嘉智子(カチコ)
在位年数=18年(833〜850年) 年齢=41歳(810〜850年)
所在地=京都市伏見区深草東伊達町
 参拝年月日 2007.9.7(金)台風9号が関東・東北地方を襲っている残暑厳しい日、京都北区・伏見区の天皇陵を参拝した。
ここ任明天皇陵はバックを名神高速道にした街中の御陵だった。

2007.9.7 
2007.9.8 撮影

2007.9.8 撮影
 2015.2.8
 
2015.2.8 撮影 

2015.2.8 撮影 

第55代 文徳天皇陵 陵名=田邑陵
(タムラノミササギ)
陵の形=円墳 皇居=平安宮
(ヘイアンノミヤ)
父=仁明天皇 母=藤原順子
在位年数=9年(850〜858年) 年齢=32歳(827〜858年)
所在地=京都市右京区太秦三尾町
この陵へ行くにはJR太秦駅からのほうが近くて分かり易いが、2006.10.30、嵯峨天皇陵〜後宇多天皇陵からの流れで広沢の池のほうからやってきた。

広沢の池

文徳天皇陵



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