第105代 後奈良天皇陵 陵名=深草北陵
(フカクサノキタノミササギ)
陵の形=方形堂 皇居=平安宮
父=後柏原天皇 母=藤原藤子
在位年数=32年(1526〜1557年) 年齢=62歳(1496〜1557年)
所在地=京都市伏見区深草坊町
(灰塚=京都市東山区今熊野泉山町 月輪陵内)

20007.9.7(金)残暑厳しい一日、後深草天皇陵を訪ねた。
下の写真の通り「後深草」「伏見」「後伏見」「後光厳」「後円融」「後小松」「称光」「後土御門」「後柏原」「後奈良」「正親」「後陽成」の天皇名が列記されていた。
この時代には火葬が定着していたのだろう、合同陵になっている。

後奈良天皇も即位の礼は10年後に挙げられるほど皇室財政は逼迫していた。

2007.9.7 撮影

2007.9.7 撮影

第106代 正親町天皇陵 陵名=深草北陵
(フカクサノキタノミササギ)
陵の形=方形堂 皇居=平安宮
父=後奈良天皇 母=藤原栄子
在位年数=30年(1557〜1586年) 年齢=77歳(1517〜1593年)
所在地=京都市伏見区深草坊町
(灰塚=京都市東山区今熊野泉山町 月輪陵内)

20007.9.7(金)残暑厳しい一日、後深草天皇陵を訪ねた。
下の写真の通り「後深草」「伏見」「後伏見」「後光厳」「後円融」「後小松」「称光」「後土御門」「後柏原」「後奈良」「正親」「後陽成」の天皇名が列記されていた。
この時代には火葬が定着していたのだろう、合同陵になっている。

戦国時代真っ只中の天皇。
織田信長、豊臣秀吉は天皇の権威を利用する方針で天下人となったため、天皇の権威は高まり天皇との相互依存関係が成立したと見ることが出来よう。

2007.9.7 撮影

2007.9.7 撮影


第107代 後陽成天皇陵 陵名=深草北陵
(フカクサノキタノミササギ)
陵の形=方形堂 皇居=平安宮
父=誠仁親王 母=藤原晴子
在位年数=26年(1586〜1611年) 年齢=47歳(1571〜1617年)
所在地=京都市伏見区深草坊町
(灰塚=京都市東山区今熊野泉山町 月輪陵内)

20007.9.7(金)残暑厳しい一日、後深草天皇陵を訪ねた。
下の写真の通り「後深草」「伏見」「後伏見」「後光厳」「後円融」「後小松」「称光」「後土御門」「後柏原」「後奈良」「正親」「後陽成」の天皇名が列記されていた。
この時代には火葬が定着していたのだろう、合同陵になっている。

後陽成天皇の治世はちょうど豊臣秀吉の天下統一から徳川家康による江戸幕府開闢の時期に当たっている。
秀吉が天皇を尊重して例を尽くしたのに対し、家康は自己主張して天皇の意向に必ずしも従わなかった。

2007.9.7 撮影

2007.9.7 撮影

第108代 後水尾天皇陵 陵名=月輪陵
(ツキノワノミササギ)
陵の形=九重塔 皇居=平安宮
父=後陽成天皇 母=藤原前子
在位年数=19年(1611〜1629年) 年齢=85歳(1596〜1680年)
所在地=京都市東山区今熊野泉山町 泉湧寺内

昨日(2004.9.11)彦八ハイクで伏見稲荷から阿弥陀ガ峰〜豊国廟を歩いた際、泉湧寺にいくつかの天皇陵のある事が分かった。
時間の都合で昨日はいけなかったので本日改めて訪問した。
泉湧寺に500円の入山料を支払って境内を歩くと右手奥に四条天皇他24天皇が一つの月輪陵に祀られていた。

後水尾天皇には33人の皇子・皇女がいる。

2004.9.12、撮影

2004.9.12、撮影

第109代 明正天皇陵 陵名=月輪陵
(ツキノワノミササギ)
陵の形=九重塔 皇居=平安宮
父=後水尾天皇 母=源和子(マサコ)(東福門院)
在位年数=15年(1629〜1643年) 年齢=74歳(1623〜1696年)
所在地=京都市東山区今熊野泉山町 泉湧寺内

明正天皇の母源和子(マサコ)は家康の曾孫・松姫(二代将軍秀忠の五女)14才にして、徳川の血を天皇家に・・・、
天皇家の権威をわがものにと、公武合体の名の下入内を画策される。
その子、女一宮(明正天皇)は8歳のとき、後水尾天皇の脱シにより8代目の女帝として即位される。
京都の十禅寺は女一宮の勅願寺。

諡号は女帝・元明、元正天皇の「明」と「正」から一字づつとって「明正天皇」とされた。

泉湧寺に500円の入山料を支払って境内を歩くと右手奥に四条天皇他24天皇が一つの月輪陵に祀られていた。

先の108代後水尾天皇と同じ月輪陵

先の108代後水尾天皇と同じ月輪陵




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